ネットワークの難しさについて考える その2
この間は、少しネットワークについてネガティブなことを書いてしまったので、少しポジティブな話を書こう。
僕らの若年者就労支援業界の現場の方々が集まると、何らかのアイスブレイクがあると、ふっと言葉を超えた繋がれる感覚があるんです。
僕は、わりとブレイクできない質なんですが、あれはなんかほっとしますね。
それは、教育の現場に行った時もたまにあって、「おっしゃる通り」と共感することの方が多い。
見ず知らずの方々が、同じ課題、悩みを抱え、同じ希望を持ちながら仕事してんだなと、ホントに救われる。
あ、↑今書いたここだな、と思うのです。
入口と出口はだいたい一緒なんだと。つまり、大変な状況の人を見たらなんとかしてあげたいと思い、この人が社会に出て自分の人生を歩んで欲しいなと当たり前なことをみんな思うんだ。
ここ。大枠は一緒でフワッと繋がれる部分なんです。
これがひと度、ケース・カンファレンス的(個人への対応=入口出口で言えばの中)になってくると、良い方にも悪い方にも、大分様相が変わってきます。まあ、こういう機会を持てる支援者は正直少ないと思いますが。
要するに手法や理念なんかの話に入ると、「そんなもんほっときゃいいのになあ」とか、「それくらいの融通は効かせてあげなきゃ」とか、「あんたは保護者かよ」とか、いろいろ〜な突っ込みが出て来るわけですよ。だいたい僕が思うことはこんなことです(笑)
「あぁ、この人の施設は一度見に行かなきゃな」とかも思いますが、注意したいのは「あぁ、この人のところにはリファーしたくないなあ」とかの方。
この考えが駄目なんですね。この時点で思考が停止し、可能性を失っています。
昨日のタイトルで実は言いたかったのはこれ(やっと辿り着けた〜)。
Q:ネットワークは理念を超えられるのか?
A:顔見知りにはなるけど、やはり超えるのは難しそう。
Q:超える必要があるのでしょうか?
A:ないのでは?
ネットワークを広げるには、超えるのではなく、異質な理念を自らの幅や多用性として受容していかないと駄目だと思います。
その際の感覚として重要なのはスペシャリスト的なものではなくジェネラリスト的な感覚だと思います。
そして利己的ではなく利他的に考えること。
まずは机上の議論から離れ、リソース開拓を足を使ってするべきではないか?
自分の施設の利用者に紹介できる運営がなされているのか、自分の目で確かめるべきだと思う。
ハマトリアム・カフェで取り上げたコラムがあります。
これ、ちょっと舞台裏を明かすと、NPO法人ユースポート横濱が運営する通所型支援施設「よこはまサポートステーション」のスタッフの岡本さんが、NPO法人ヒューマンフェローシップの運営する宿泊型支援施設である若者自立塾を見学に行った際に出した、お礼状のような感想を記したメールだったんです。
僕もCCに入れてもらっていて、その文章をワクワクしながら読みはじめ、終わった時にはハマトリアム・カフェへの掲載を企画してました。
岡本さんの素直で忌憚のない感想に触れ、こういうことが本当に大事だよなあと思いました。
きっと岡本さんが、ワールドカフェでいうところの旅人になり、自立塾についてサポステ・スタッフに語ることでしょう。
このことで岡本さん、いや、ユースポート横濱に足を運んだ若者の可能性の幅が、きっと少し広がったと思います。
こういうことの繰り返し何だと思います。どこかに集めて「ネットワークを作ろう!」ではダメなんです。
Today's BGM is
Galactic/ya-ka-may
萩原健太のブログで紹介されててすごく気になっていたら職場にあった。新し物好きのBig-Oが持ってた、さすがである。できる男になったものである。アラン・トゥーサンだと!でも、ニューオリンズというイメージをどう捉えているかが問われるアルバムのような気がする。僕は正直面食らって今聴いているよ。Dr.John、Metersですからね僕のは。少しずつ聴き込んで点を線で結んでいくと面白いかも。