極めて当たり前なことなのかもしれないが、若者を支援している人とか、そういう団体は、手の掛かるしんどいなユーザーに引っ張られる傾向を持っているようである。
実はこれ、教師にも当てはまると藤原和博氏も指摘していて。その指摘の仕方がわかりやすかったのでうっすらと引用してみると。
五段階評価で生徒をセグメントしたとすると、教師が気になるのは、1や2の生徒であり、どうやらそういう生徒が可愛いのだそうだ。
そういう情はなんとなくというか、よくわかる。
次いで気になるのは3の生徒を4、4の生徒を5にすることだと。ハイエンドな5の生徒が1番ほっとかれて塾任せになっているが、実は経済的に塾にいけない子がいるので、藤原氏は夜スペでハイエンドの生徒を更に伸ばす取り組みをした(賛否両論ありましたがこの説明は納得がいきます)。
支援者と教師は、なんとなく別の人種のように感じてしまいがちだが、ソーシャルな共通領域にいることを改めて感じさせるエピソードである。
さて、下の図を見てほしい。これはA〜Eという社会資源が理想的に配置されているという図である。緩やかな階段が居場所的支援から徐々に就労を強く意識した支援につながっていることを表している。
ちなみに今回話題にしているのは、私的な法人ではなく、公的な機関及び公的な資金で運営されている公的なミッションで活動する機関についてである(シェアコロの運営するハマトリアム・カフェもこれ)。
私的な法人は自らのミッションをまっとうするために我が道をいってほしい。
今度はこちらの図を見てほしい。全国的にだと思うが、どうも支援機関が社会的に求められた立ち位置よりも随分と居場所、或いは個別カウンセリングよりにシフトした支援メニューで運営されているように感じるのである。
これにより、本来緩やかな階段をステップアップできるように配置された社会資源が、どこも緩やかな定着支援や居場所支援、カウンセリングを中心にすることとなり、社会資源としての差別化がなくなってきている(実際は各々特徴的であるがマニアックなジャンル分けに過ぎない)。
これにより、就労を強く打ち出した社会資源が手薄になり、ステップアップしたいユーザーが立ち往生してしまっている。いきなりハローワークは無理!みたいな。或いはギャップが大きすぎ、そこにポッカリと落ちてしまうユーザーが出ているのではないか。
現場がニーズを感じ、徐々にシフトしたのだろうが、本来担うべきポジションよりも随分と前に、かなり無理して支援して、そこに二年、三年通い続けている若者がいるというケースを耳にするたびに、どうしてこんな風になってしまったのか考えてしまうのだが、その答えが冒頭の支援者、いや、ソーシャルな領域で仕事をする人たちの性のようなものなのかと思い当たったのである。
しかし、支援者個人がそのような嗜好を持つのは悪いとは思わないが、団体や施設が本来担うべき役割、社会的ミッションを蔑ろにしてシフトしてしまうのはおかしいと思うのである。
もうひとつ縦割り行政の弊害がもろに出ているケースも見受けられる。根っこの省や部が違うことで起きているかぶりもあるのだ。Aという社会資源があるにも関わらず、知ってか知らずがBという社会資源が別の部署から立ち上がると。こういうのはどんどん事業仕分けで整理されていくのでしょうが。
最後にもうひとつ。それがこの図。要するに、ローエンドユーザーほどリファー(他団体への紹介誘導)が困難なのである(それにしても字が汚い。写真を転送をする手間を考えればパワポで作っちゃえばよかったなあ)。
一度関係を(彼ら的には相当!)苦労して築いたら、新たな関係をゼロから構築しようとは思わないのだ。
誰にも話したくない秘密の話しを、わかってくれる保証のない人間にもう一度しなくてはならないのだから、その気持ちはちょっと想像力を使えばよくわかるだろう。なので彼らはファーストコンタクトした施設に定着する傾向を持っている。
そもそも、このボタンの掛け違いをなくすためのアセスメント、つまり本人を理解するための最低限の聞き取りではなく、どの団体に行くことがベストなのかを、いったんその団体の職員という立場から離れ、俯瞰的に社会資源の照合を行うためのアセスメントが各機関で出来上がっていないことが課題なのではないかと思う。
これは、僕が最近、いろいろなところで語るようにしている「出口非未決定型アウトリーチ」と理念は一緒である。
最後に言うまでもないが、理想的なネットワーキングを表にしてみた。
例えば、BにAが対象しているような若者が現れたら、BがそのサービスをA側に拡大するのではなくAにリファーすればいいのだ。コアコンピタンスという経営用語がある。意味は「競合他社を圧倒的に上まわるレベルの能力」「競合他社に真似できない核となる能力」ということだが、こういうことをもっと意識しあわないと社会資源としての価値がなくなることを、理解すべきだと思う。
Today's BGM is
John Coltrane/The John Coltrane Quartet Plays
苦手だったアルバムが急に聴けるようになることってありませんか?僕はこれ、という後期のコルトレーン。たいがい何かナビゲーションとなる音楽との出会いがそうさせているのだと思いますが、僕の場合はマイケル・ブレッカーがコルトレーンへの理解に導いたような感じがしています。それにしてもベースが二人ですよ!ひとりはギコギコ、一人がブインブイン!エルビンの拡散するドラム。カオス一歩手前でコルトレーンが境界を手探りしている。そんなアルバムです。