お年寄りのひきこもり
昨日、社会教育の研究者であり実践者でもある、中村好江さんが計画している『シニア・ハマ・カレッジ』という高齢者支援(こんな簡単なことではないと思う)で、僕のスキルやネットワークが繋がらないか、という刷り合わせをしていました。
その中で出て来た言葉がタイトルの「お年寄りのひきこもり」という言葉。ちなみに中村さんは「地域デビュー」という言葉を言い出した方なんだそうです。
この「お年寄りのひきこもり」という言葉は、どれぐらい流通しているのでしょうか?(帰ってググってみよう)
僕は初聞きで、ちょっと“お”から始まる丁寧な言葉に続く“ひきこもり”という、略したら「おひきこもり」か、という響きに面食らっちゃいました。
『孤独死ゼロの町作り』という本を読み、僕なりに孤独死には強い問題意識を持っており、僕自身の団地の孤独死についても考えてみたりしました。
でも、孤独死してしまう前に、長い時間「お年寄りのひきこもり」の状態がある、というちょっと考えればわかりそうなことへの想像力が、僕はこれっぽっちも働かなかった。
僕は常々、支援者の資質でもっとも重要なことはイマジネーションだと公言してきたので、なんかカウンターパンチを食らったような衝撃があった。
中村さんは、このお年寄りのひきこもりを、外に出し、もう一度地域へのデビューをさせる取り組みがしたいのだという。
そこに僕の家庭訪問支援士のスキルが活かせないか、と単刀直入に聞かれた。
これは単刀直入には返せなかったなあ…。同業者諸兄はどう思いますか?
「人と接点を持つことを拒絶しているクライアントとの信頼関係構築を図り、クライアントに人との接点を持ってもらう」
という、超要約したミッションから捉えれば、お年寄りも若者も同じなのかもしれない。
しかし、若者は当事者の保護者が依頼者になるが、一人暮らしのお年寄りには依頼者がいない。
ここが決定的な相違点になるだろう。
ということは、保護者からの相談からではなく、近所の人からの通報のようなもの、或は戸別訪問しながら対象者を把握していくことになるだろう。
保護者により食事が提供される若者と違い、自分の食事は自分で賄わなければならないから、物を買うなどの他人との接点はある。ただし、世間話をしたり、一緒にお茶を飲んだりはしない。
ホームアローンのマカリスター家の隣のおじいさんのイメージが僕には湧いてきた。
新聞の集金や、宅配サービス員が、彼らを掌握しているかもしれない。或は自治会や民生委員の方々。お年寄りには大変な作業を請け負う便利屋など、アウトリーチの鉄則である「発見」の部分はなんとかなりそうだ。
問題は次の「誘導」。そして「参加」。
非常に難しそうだぞ…。
「社会的な責任を果たしてきたお年寄りがひきこもっちゃいけないのか?」なんて声も聞こえてきそうだ。
ひきこもりの若者たちは、ある一定時間を経過すると、実は助けを求めだす。勿論、沈黙のSOS。
訪問支援士の依り所はここだ。
こういう「本当はみんなと仲良くやりたい」ということが、お年寄りのひきこもりにはあるのかなあ?
あってほしいなぁ人だもの。
ちょっと考えると、実は僕がやってた訪問販売のスキル(孫年齢だった僕はお年寄りが得意だったf^_^;)の方が役立ちそうだぞ、なんて考えてみたり。
う〜ん…、でも若者たちには通じにくいお節介がけっこう通じないのかなあ。
「お年寄りのひきこもり」について、皆さんも考えてみて下さい。
Today's BGM is
イノトモ/やさしい手。
良盤である。一曲目の鈴木総一朗の仕掛け、駒沢さんのペダルスティール、そしてイノトモちゃんの声で持ってかれる。あ、僕はちゃん付けですイノトモw。こういうアーティストが日本にいっぱいいるといいし、こんな感じで手作りでアルバムを作っていけると楽しいのになあ、と思う。駒沢さんにはもう少し参加してほしかったなあ、とか、ここでドラムが、とかいうリスナーに隙を与えてくれる感じも、敢えていい感じだ。つじあやのが売れてイノトモが売れないのはなぜか、などと考えるのもおつ。