人を成長させる“いざ”という時を、教育機会にどう作るか?
この間、なんかの記事で「いざというときに力を発揮できた」という成功体験から自信をつけていくものだが、なかなか“いざ”となることは少ないのが現実。というのを読んで、そうそう、と思った。
ましてや、家庭の中、学校の中では、“いざ”が起こらない。逆に起こらないようにしている空間かもしれない。
この“いざ”を教育機会の中に意図的に仕掛けていけないか?或いは出現率を上げていくとか。
ワークショップなどは、出現率を上げる場を創り出す、ひとつの手法だと僕はとらえている。“いざ”をもう少し、わかりやすく分解してみよう。
“いざ”というものの手前には、たいがい“テンパる”ということがつきものだ。
テンパった状態をブレイクスルーするために、“いざ”という時がやってきて、えいやっ!っとアクションを起こし、あら、なんとかなったじゃん、という生暖かい安堵の底から自信が湧いてくるんだと思う。
成功体験を咀嚼すると、どんな偉業でもあっても、まあ、こういうことですよね。
こういことを繰り返していると、そのうち、このテンパりの部分が頑丈になってきて、ちょっとやそっとじゃテンパらなくなる。これが自信というものです。
テンパり曲線のピークに深い溜めができると、テンパる前に、物事を解決できてしまったり、テンパっても平常心に近い冷静な考えができるので、ポテンシャルを発揮することができるようになる。
そうなってくると、成功する確率が上がっていく。その成功がスパイラルアップのエネルギーとなって、できる奴がよりできる奴になっていく。そういう原理だと思う。
僕が常々言ってる自己効力感というものも、こうやって育まれていくんだと思うんですよ。ということで、改めて、この“いざ”を教育機会の中に意図的に仕掛けていけないか?
“いざ”が起こりやすい、不確実な場所はどこか?
どう考えても職場ですよ。ということで、成功体験の獲得機会は職場だと思うのです。学生であればアルバイト先です。
くどいようですがバイターンの肝はここです。“いざ”ってやつの特性として、実はスルーしちゃえるということがある。これは、結構なことしたのに、自覚がないスルーというパターンも含め。
僕がバイターンを教育的と言ってるその意味は、ここをスルーさせずに、しっかりキャッチアップしていき、経験を知識へと変換させる仕組みがあるから教育的と言っているんです(公の方々にはこの「教育的」という言葉が非常に引っかかるようですが…)。
話が毎度の話になってきたのでそろそろ〆ますが(苦笑)。
結果だけにスポットを当てたフィードバックよりも、テンパりから「えいや!」の過程に対するフィードバックが若者を成長させることには大切だということです。
ちなみに偉そうに書いた僕ですが、テンパりまくりのチキンハート野郎です。僕も実践していきたいと思いま〜す。
Today's BGM is
The Beatles/Abbey Road
内容は知りませんが、昨日このアルバム収録の1:32の曲「Golden Slumbers」がタイトルの映画がやってましたね。観なかったけど。トイレ本にしているビートルズのレコーディングセッションを完全網羅している本の冒頭にポールのインタビューがあって、「The End」のリンゴのドラムソロ“らしい”ものについて語ってて。ドラムソロが嫌いだったメンバーが、リンゴがビートルズに入る時「ドラムソロはやる?」と聞いたら、長いソロをやるドラマーを皮肉って「うん、5時間ぐらいね!」と言う話が面白かった。