世帯の経済格差が、生徒の教育格差になっているga,
勉強ができないこと。就活に身が入らないことを、自己責任論だけで、片付けるのではなく、彼らの所属する世帯、世帯が所属する社会の現象として捉え、地域で解決していかなければならないと思います。それがバイターンです。
目の前にいると、「おまえしっかりしろよ〜」って思うけど、ぐっと引くと「しっかりできない家」と「しっかりできる家」があるんだよなあ、と思うんです。「しっかりできない家支援」が先か、「しっかりしてない生徒支援」が先なのか。ここは非常に難しいなあと腕組みしちゃいます。
以前、足立区の生活保護世帯のニート状態にある若者の家庭訪問支援士支援という事業をやらせていただいていたのですが、そのときのことを大雑把に総括すると「就労支援よりも生活支援をしなきゃどうにもならない」ということです。言葉を言い換えれば「本人よりも世帯の支援をしなきゃどうにもならない」となります。ここに「怠け」では片付けられない根深い問題が潜んでいるわけですが、「おまえしっかりしろよ〜」で終わる、“理解のされにくさ”に、負の連鎖の恐ろしさがあるわけです。
当然、生活支援をするには世帯に踏みこまければならないわけですが、若年者就労支援をしている私たちにとって、世帯に踏み込んだ支援は相当ハードルが高いです。ひきこもりの家庭訪問支援の際の、家庭内の調整とか調停という“人間関係の整理”でさえ、できてる支援者は一握りと言っていいでしょうから、保護者の金銭管理や生活習慣の改善は、到底不可能だと言わざるを得ないのが現状です。
これ、生活保護世帯であればケースワーカーとの連携というものを突き詰めて制度化していけば、可能性はあるかもせれません。ていうかしてほしい!しかしここにも問題があって、「稼働年齢以前の子ども、若者については、基本保護者が指導をするべきで、ケースワーカーがするべきものではない」という考え方と、「いや、生活能力の著しく低い世帯に関しては、積極的に子どもたちにアプローチするべきだ」という考えが、ワーカー内でも議論が割れる部分だと聞いたことがあり、ワーカーが抱える世帯数の多さ及び、ワーカーが一般職の場合の専門性の低さ及び、情熱の不足等を考えると、この本人と世帯のセット支援は相当難しそうと言わざるを得ないのも現実です。
生保世帯というある種の強制力が発動できる状況にあるので可能性があるわけですが、これが一般世帯(この図から言えば「準保護世帯」)の場合、高校の保護者会に呼ぶのですら苦労するわけですから、介入は極めて困難でしょう。
ここまで書いてきて、本人と世帯とをセットで支援するべきというのは正直お手上げなわけです。モア・ベターを常に標榜する私たちはどうするべきか?
どう考えても支援対象者捕まえることができるのは学校であり本人なんですよ。学校の一番のメリットは全数把握ができること。ここを逃すと大変なことになる。何が大変かというと、支援機関利用者の平均年齢がおよそ27歳だと考えると、卒業後10年しなければ支援の場に彼らは現れない(しかも現れれるのは極一部)。その年を取った彼らの支援には膨大な人と時間、即ちお金ががかかるわけです。だから変化性が高く、社会も受けれ入れやすい若いうちに予防的支援をする。これが今後の若者支援の鉄則です。このこととを考えれば「しっかりしてない生徒支援」が先なんです。これは自明だと思います。
しかし、その生徒たちが帰る場所が「しっかりできない家」。…改めて、これが負の連鎖です。ここをなんとかする議論をしなければ、日本は生保世帯の負の連鎖の渦に飲み込まれて沈没します。
最後に、この間エントリーした最近の僕の興味である、人はかけられた期待が大きいほどよい成果を上げる傾向があるという「ピグマリオン効果」ですが、この左上がりの図も、そういうことなんだと思うんです。
親からも(教育費をかけてもらえない)、先生からも(ラベリング)、社会からも(就職氷河期)期待されていると感じることができない若者たちが、どうなるのかというのを、示したのこの図だと僕は思います。
そして、就職希望高校生のための有給職業体験プグラム「バイターン」は「おまえに期待してる!」っていう社会からのはじめての表明になり、賃金をもらうことで承認欲求が満たされ、自尊感情だとか自己有用感が満たされ、一人前の市民に成長していく。そういう仕組みを目指してるんです。