「微弱なSOS」という言葉を聴いた時、とても切ない感じがした。たぶん、孤独死にまつわるニュースだったと思う。新聞受けの新聞が溜まるとか、公共料金の滞納等…。
微弱なSOS、それは言葉にならない助けを求める声である。
対人支援をしている経験では、このSOSは、目線であったり仕草であったり、言葉尻に隠れたりしている。そしてその発信は、無意識的であったり意識的だったりしているように思う。それをいかにキャッチできるか。このアンテナの感度が支援者のセンスである(あえてスキルとは書かない)。僕らは常にイマジネーションを研ぎ澄ましておく必要があり、キャッチしたSOSが身体のどこかに溜まるんだろう、これがなかなか消耗するのだ。
イメージがしづらい人のために、シチュエーションを書いてみよう。
支援機関で60分の相談が終わり、次回の予約を確認して出口で見送る。なんとなく、若者は来たときより笑顔が出て、ほぐれた印象がする。しかし、その笑顔の端に、微弱なSOSが現れていたりして、別れるタイミングがお互いつかめず、ぎこちない別れになる。なんてことがよくある。
僕 「大丈夫?」
若者「大丈夫です(へらっと笑った口元がちょっと引きつってる=(微弱なSOS)」
僕 「ほんと大丈夫?なんかあったら電話してきていいからさ」
若者「はい(微弱なSOSが消えている)」
僕 「次回までに俺もなんか考えておくよ」
若者が発信する微弱なSOSは、キャッチ(受信)されているという安心感、すなわち繋がりによって安らぎへと変わる。そしてキャッチした支援者は、次の一手を思案しはじめる。
「QOUL|大学生の生活満足度調査」で、大学生の相談相手の実に友人知人が89%で、大学教員・職員は僅か5%だった。
昨日のシンポジウムのパネルディスカッションで、僕が冒頭議論したかったことは、「大学教員及び職員は、大学生が発する微弱なSOSをキャッチできているのか?」という、支援の流れの最上流にあたる「発見」の部分についてだった。
微弱なSOSは、まだアクションにはなっていない無言のメッセージ。上記アンケート結果である「相談」はアクションである。言葉にして伝えられないことをソーシャル・スキルの低下という言葉で表すこともできるだろう。
だから、大学内でSST(ソーシャル・スキル・トレーニング)をしっかり教えるべきだ、という意見がある。僕は賛成。一部の学生には絶対に必要なことだと思う。でも、それは『しっかり歯を磨きましょう』という予防的取り組み。それもしつつ、虫歯で痛がってる学生には治療が必要だ。大学にはすでに困難な状況に陥ってしまった学生がおり、大学生の孤立死の問題なども起きており、対処的支援が強く求められていると思う。
昨日、言葉に出きないことを「生命力のなさ」という言い方を大学関係者の方がされた。それに対して、私と同業の方が、「それは言葉にすることが出来る人の理論である」と反論していた。おっしゃるとおりだと思う。
こっち側に来て私のテーブルに座りなさい、ではなく、そっち側に自分が行って、一緒に地べたで体育座り。沈黙の時間も共有する。これが僕の伴走・寄り添い型の支援の在り方だ。そして、大学が相談室があるんだから相談室に行けではなく、相談室が大学生のところに行くべきだ。これが僕の考えだ。
大学は経営的課題を克服するために多様な学生を受け入れているのだから、もっと積極的に多様な課題を抱えた学生像にアウトリーチするべきである。
上記太字のアンケート結果を客観的に考えれば、大学生からすると、大学教員及び職員は微弱なSOSを発する対象にはなれていない、或いはキャッチできていないという結果だと言えるだろう。
しかし、友人たちとの関係に神経を使い、空気の読み合いしている大学生たちにとって、微弱なSOSほど友人には気づかれたくないものだろう。そう考えると、一番届いて欲しい身近な大人たち、つまり大学教員及び職員に、微弱なSOSをキャッチして欲しいに違いない。
しかし、果たして本当にキャッチできていないのか?
昨日のパネリストで、神奈川大学で非常勤講師を務める小川泰子さんは、授業をしていればそのSOSは感じるという。同じく小川さんの授業のゲスト講師をしたことのあるNPO法人ユースポート横濱の岩永さんは、感想文の中にそのSOSはあると言う(僕も同じ経験あり)。
当然のことながら、大学関係者には、微弱なSOSをキャッチできている人もいれば、いない人もいるということだ。
大学者たちのミッションは何か?
昨日、ディスカッションの終了間際。そういう議論も大事だが、日本の経済情勢がこんなんじゃ、学生のキャリア不安を解消できない、これは大学だけの問題ではなく、社会全体の問題なのだ、という発言があった。
このことに対して、NPO法人NEWVERRYの山本さんは「それこそが大学の役割である」と言い切った。大学は研究成果を地域社会に貢献しているのか。大学こそがその問題を解決する立役者にならなくてどうるすのか、という発言だった。
大学者たちのミッションは何か?
いま、このそもそも論を議論しなければならないのではないだろうか。大学に人を育て上げる仕組み(微弱なSOSをキャッチすることもそのひとつ)がなく、そのミッションが達成することができるのだろうか?
次回、微弱なSOSをキャッチした先の「誘導」について、書いてみたいと思う。
書きながら、僕の中にはひとつのメタファーがずっと浮かんでいる。微弱なSOS、それはまるで大学という果てしなく広い海に投げられた「メッセージ・イン・ア・ボトル」なのではないかと。そのボトルを拾うのは誰か?そこにはいったい何が書かれているのか?
Today's BGM is
Free/Highway [UK Bonus Tracks]
フリーは僕にとってはハマリ切れないバンドである。このアルバムも何気にかけてたらけっこういいじゃん、という感じ。ボーカルの声も好き、コゾフのギターだって。そして何より僕はベースが好き。でもなんか遠いんだよなあ〜。それは哀愁の度合いなんだよね。ちょっと僕には濃いw。例えばこのアルバムの人気曲「Be My Friend」。ダメだなあ〜。「Ride on a Pony」みたいなのばっかだとほんとかっちょいいのにな。