LSDW〜ロー・スキル・ディーセント・ワークの模索〜
「高いスキルがあれば、所属や階層からの移動が可能である」と一般的に考えられている。
高スキルを獲得し、キャリア・アップすることは、自己実現だけに留まらず、今いる不満足な所属や階層の移動が可能になる。現在のサバイバル的雇用状況から言えば、移動というよりも「脱出」が可能という言葉の方がしっくりくるかもしれない。
低所得層からの脱出。生活保護からの脱出。この支配からの卒業。まあ、言い方はいろいろある。ロックという音楽は、この衝動で成り立っているとも言えなくないぐらいだ。最近読んだブログ記事で「尾崎は自由になれたのではなく、自由になれた気がしただけだ」というのをノマドワーカーに当てはめてて面白かった。いきなり脱線してしまった…。
移動可能性を持つためには専門性を獲得し、高スキルにならなくてはいけない。高スキルとまではいかなくても、何か秀でたスキル、もっと妥協的に言えば、部分的にでもいいから平均レベルのスキルを持てば、自分を取り巻く不満足な環境から抜け出すことができる。
だから頑張ろうよ。
相談機関などでよく言われることである。ただしこれは、同時にスキルを評価し、対価に変えていくという企業側の仕組みがなければならない。これがなし崩しになっているのが今の日本の劣悪化してしまった雇用状況である。月曜から金曜まで最低賃金で働いても生活がままならない労働ダンピングの現実は過酷である。
日々、相談を受けていると、高スキル=移動可能という考えはすでに破綻している、或いは破綻しかけているということを実感として感じている。
今から25年前、僕が18歳だった頃。時代的にはバブル前夜祭的な様相だろうか。世間では、「頭が良ければ大学へ、頭が悪ければ手に職を」。この至ってシンプルな方程式で、進路の悩みはほぼ解決していた。だからキャリア・カウンセラーなんていらなかった。
勉強がカラッキシできなかった僕に、父は手に職をつけた方がいいと、たぶんそんなに深く考えもしないで先の方程式に当てはめ、テレビの巨人戦を観ながらキリンの瓶ビールでも煽って言ったに違いない。
そんなこともあり、僕の通っていた札付きの悪たれ課題集中校に来ていた求人票には、何の魅力も感じられず、僕は美容師の専門学校に進学した(美容室に就職したけど1年経たづに辞め逃避行した)。
あれから、25年。書くのも面倒くさいほど日本は大きく変わった。
「高いスキルがあれば、所属や階層からの移動が可能である」
↑これ、25年前の発想とまったく同じじゃないか。
どんな技術も、海外でより安い労働力があれば簡単に仕事は流れ、コピーされ、便利なソフトやサービスが誕生すれば、高スキルはいっきに低スキルと化す。技術の最先端の波に乗り、サーフィンしていけるのは極一部の人たちで、そんな人たちが無人で何かを作るロボットを作り上げ、作業員を切り捨てるという、なんとも皮肉な社会である。
ヨーロッパの職業訓練が、所属や階層を移動可能な「職業スキル」を身につけさせることをコンセプトにしていると聞いたことがあるが、そうあるべきだと強く思った。いや、今でも思っている。だけど、今の日本で、高スキル=移動可能性に本当になるのか?
超業績主義という意味を持つ、本田由紀先生の「ハイパー・リメトクラシー」という造語がある。簡単に言えば、超優秀な人材しか生き残れない組織構造のことだ。日本企業のハイパー・リメトクラシー化に歯止めが利かず、人よりもちょっとぶきっちょで作業の飲み込みが遅かったり、コミュニケーションに難があるような人材は簡単に切り捨てられてしまうのがハイパー・リメトクラシー化から起きる現象だ。
組織に残れなかったり、入れ込めなかった若者たちが貧困状態に陥り、生活保護受給者となっている。この中には超高学歴の若者や、高スキルの資格を持った若者も多いと実感している。しかし、それが職と結びつかず、今の場所から移動不可能になり社会から孤立している。今後、若者の孤立死が増え社会問題になっていくだろう。
一定以下の賃金しかもらってなく不安定雇用の人は、すべて生活保障付きの職業訓練を受ける権利があるというような制度を導入することが考えられます。もしそれがあれば、低スキルの仕事に一生滞留する必要はなくなります。
上記の引用は、2008年の『生きづらさの臨界』湯浅誠、川添誠、本田由紀対談の中での、本田由紀先生の発言だ。
現在、国は生活給付金付きの職業訓練である「求職者支援訓練」を実施している。お金もかからず、逆に生活給付金として一定条件を満たせば毎月10万円が支給される仕組みだ。本田先生が提唱した仕組みが制度化されているわけだ。
しかし、現状の求職者支援訓練の実態を見てみると、滞留から抜け出すための仕組みになっているのだろうか?。言い換えれば、高スキルを身につければ、滞留せずに抜け出せる社会構造になっているのだろうか?。
シェアするココロでは、基金訓練時代から求職者支援訓練の講師をお引き受けしているが、実感値として、高スキルを身に付けても厳しそうな人は確実いるし、高スキルが身に付きそうにもない人も少なからずいる。これは求職者支援訓練に限らず、就労支援支援施設には、一定数、スキル付与型の支援ではどうにもならない層の方々がいるということが現実なのである。
(遅ればせながら今読んでいるので、なんとなく検証しているようになってしまって申し訳ないが)この本の中には、本田先生の言っていることを、すとんと飲み込めない湯浅さんと川添さんがいる。本田先生の言っていることは正しいと思うし、そうなるべきだと思うが、社会のリアリティはそんなもんじゃない、という拒絶反応だと思う。以下の川添さんの言葉がそれを表している。
「それが目指す方向性としてはイメージできるんだけど、そこに至るプロセスが見えにくい」
高スキルを持って移動した先に、私たちは何を見ているのか?
それが近頃よく聞く、人間らしい働きがいのある仕事という意味の「ディーセント・ワーク」である。その反対側にあるのが、「低スキルでは人間らしさを奪われた仕事しかすることができない」ということが設定されているわけだ。
だがもはや、高スキルでも人間らしさを奪われた仕事に就く確率が高いのが、過労死やメンタル問題で大勢が休職している今の日本社会ではないか。だからこそ、「ディーセント・ワーク」という拠り所的なキーワードが必要だったのだ。
前置きが、異常に長くなってしまったが、そこで「ロー・スキル・ディーセント・ワーク」(以下LSDW)というものが作れないのか?ということを、今後書きながら“模索”したいというのが本ブログの趣旨である。
はじめに申し上げておくと、「ロー・スキル」というだけで、ある種の見下しが存在し、いちいち言い訳の言葉を使うはめになるので、このネーミングは失敗していると思う。しかし、わかりやすく現実を捉え、未来へのコンセンサスを得ていく過程では、これほどわかりやすい言葉はないのではないかと思い、しばらくはこの言葉を使っていきたいと思う。
また「高スキル高収入ディーセント・ワーク」を否定するものでもない。もしも、このような方々のやりがいある仕事を底支えしているのが「ロー・スキル・ノット・ディーセント・ワーカー(LS"N"DW)←もういいっちゅうの」であるなら、ここは格差の是正を考えて欲しいだけである。
LSDWの僕のイメージを簡単に説明すると、「そんなに特別なことをしてるわけじゃないけど、10時にはお茶を飲みながら、空を見上げ季節の移ろいを感じてみたり、お昼を食べたら、ふっと昼寝してみたり、それなりに毎日決まったルーティン作業はこなし、給料はそんな高くないけど、子どももなんとか育てられて、なんか日々充実」みたいなことだ。
このイメージを読んで、それってそんな特別なことか?って思った世代の人たちっているはずなんじゃないかな?。LSDWこそが、製造業や農業が中心だった日本の原風景なのだ。恐らくIターンやUターンする人たちのイメージする世界はLSDWなんじゃないかと思う。そして、LSDWで生きている人たちはこの日本にはいる。それが意外と多いのか、絶滅危惧種的なのかは、今の僕は把握できていない。
製造業や農業のすべてをロー・スキルと言っているわけではないことは強調したい。こういうエクスキューズを必要とするあたり、やはりこのネーミングの失敗を感じつつ進める…(;´Д`)スミマセン
しかし、LSDWを要約し「特別なスキルがなくても人間らしくやりがいのある仕事をしながら生きていける社会」とすると、途端にハードルが上がって思考が停止しそうになる。現にこのブログは何度もこの辺りで思考が止まり、時間をおきながら書いている。
ちょっと前にスローライフとか、ロハスみたいな言葉が流行ったけど、あれって、そこそこの収入があった高所得層の人たち、即ち高スキル高収入の人々の嗜みだったというのが実態だったと思う。でもそれを低スキル定収入で、嗜みではなく「営み」として実現していく。
いや、そんな崇高な人間らしさを求める気は、実は僕にはない。ここからいっきに弱気になっていく…。すなわち模索が始まる部分であり、皆さんといっしょに考えてみたい事柄である。
「人間らしさってなんだ?」という問いに、
「友人や知人、恋人や家族との絆のある暮らし」と答えてみよう。
LSDWな生き方には断捨離が必要だ。それは何か?
何をして対価を得るのかの「何をして」の部分を断捨離するのがLSDWだと思う。もっと究極的には「何をしていても」DWな状態になることがLSDWの目指すところだと思う。そして手元に残って際立たせたいものは何か?それが「友人や知人、恋人や家族との絆のある暮らし」なのではないか、と個人的には考えている。いや、これを取り戻すための運動がLSDWなのかもしれない。
これをさくっとがっちゃんこさせると、「何をするかではなく誰とするか」という労働観へと到達する。これは僕がバイターンで目指している世界でもある。
このLSDWになるには、現在国も動き出している、正規雇用と非正雇用の格差是正と労働ダンピングの抑制。この辺を簡単に文字化しちゃうのなら「非正規でも子どもを養育していける社会の実現」か。
話が飛躍するが少子化問題の施策を、正規就労をしている夫婦だけにターゲッティングしてたんじゃ解決はあり得ないというのが日本の現状だと思われる。そのためにも、「非正規でも子どもを養育していける社会の実現」が必要だ。そのためにLSDW。
いろんな角度での突っ込みを感じるし、自分自身の歯切れの悪さがないわけじゃないが、このブログはLSDWの“ススメ”ではなく“模索”である。今回はやたら長くなってしまったので、この辺で一旦切り、また思索が進んだら書いてみたいと思う。是非、ご感想がいただければ幸いだ。