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2012年9月の3件の記事

2012年9月29日 (土)

努力はするものではなく、与えられるものだった。

努力とはポジティブな結果期待に向かってするものだと思うんです。誰だって絶対無理だとわかってたらトライしないですよね。

傍から見てる人は「やってみなきゃわからんだろう」と思うわけですが、この、「やってきみなきゃわからない度」をアンケート的に言語化すると以下のようになるでしょう。しかし、この差はどやって生まれてくるのでしょうか?

① 絶対無理だと思う人
② たぶん無理だと思う人
③ ひょっとしたらいけると思う人
④ ダメ元でやってみようと思う人
⑤ やればできると思う人

数字が大きくなるほど、結果期待が高まっているわけですが、この中で実際に行動に移せる人=努力する人は何番の人たちでしょうか?

恐らく①と②は、努力できないと思いませんか?逆に④と⑤は努力しそうですよね。ちょっと脱線しますが、支援者たちは日常的に①と②の人をエンパワメントして③にして、「あ、本当にいけた」というプチ成功体験を演出している人たちだと思います。言い換えれば、支援者たちは努力できる下地をサービスとして提供しているといえるでしょう。

この①〜⑤の人たちの差が、これまでの学習経験から判断を下しているんだろうということはピンと来ますよね。今回、僕が「努力は与えられるもの」だというのは、この学習経験をする機会に出身階層により格差が生じているという事実を苅谷剛彦氏の『学力と階層』で、改めてまざまざと知ったからです。

この学習経験は、このブログで何度か紹介してきたSCCT理論(社会認知的キャリア理論)によると、性別や人種などの「個人的要因」と、その方が育った時代背景等の「社会的要因」で作られるとされており、僕は平川克美氏の『移行期的混乱』を読み、SCCT理論とのクロスで若者と人口減少社会=ゼロ成長社会という、若者が知らずに知らずに受けている「社会的要因」について関心を持ち、『防衛的先送り』ということを考えました。

苅谷氏は、学習経験を学習資本と考えた場合、「経済的資本」と「文化的資本」があるとし、興味深くもショッキングなデータから教育への警鐘を鳴らしています。

僕は常々、経済的資本が少ない家に育ち、今も経済的資本の少ない世帯の主なわけですが(涙)、その割に明るく朗らかに育ちましたし、子どもたちも今のところ明るく朗らかに育っていることに、職業柄か、何か根拠がほしいと思っていましたが、その答えが「文化的資本」だということに気付かされました。

苅谷氏の小中学生に実施した調査では、この「文化的資本」を以下のような項目から上位、中位、下位グループに分けています。

・家の人はテレビでニュース番組を見る
・家の人が手作りのお菓子を作ってくれる
・小さいとき、家の人に絵本を読んでもらった
・家の人に博物館や美術館に連れて行ってもらったことがある
・家にコンピュータがある

ちなみに我が家は胸を張って上位グループだと言えます。ただし、博物館をロック・コンサートと置き換えた場合ですがw。

様々な項目に渡り、上位グループが学習面でも生活面でもしっかりしてることがわかる結果なわけですが、個人的に「努力」について個人的にフィルターをかけた項目を抽出すると、以下のようなものがあります。※以下は全て小学校。中学校はポイントが低くなりつつ、バランスは小学校に準じてる。

「嫌いな科目の勉強でも頑張ってやる」上位74.1%、中位69.4%、下位54.0%
「勉強は将来役に立つ」       上位86.2%、中位78.3%、下位69.7%
「家庭での学習時間(平均時間)」  上位51.2分、中位38.8分、下位35.3分

まあ、何から何まで、家に文化的環境のある子どもたちに良い結果が出てるということです。今後、経済成長が見込みにくい日本の子育ては、文化的資本に特化して行くべきだという考えを僕は持っています。それが経済的資本にアクセスするルート、或いはアクセスせずにも幸福になるルートなのではないでしょうか。

僕が特に注目したいのは「勉強は将来役に立つ」という質問。これはSCCT理論でいう所の結果期待そのものであり、「努力のしがい」であると思うのです。そしてこの努力をすれば報われるという感覚に出身階層が大きな影響を与えていることを「インセンティブ・デバイド(期待格差)」といいます。苅谷氏が指摘するように、このことは、ある意味「それを言っちゃあおしめえよ」的なタブーになっていたように思う。

日本でのメリトクラシーの議論では、生得的な能力よりも努力に大きな比重がかけられてきたといわれてきた。また、海外の研究者による日本の教育研究においても、子どもたちの「努力主義」や「がんばる」ことが、日本の教育の特徴であるという指摘もあった。ところが努力の重要性を指摘する一方で、それが社会的階層とどのような関係にあるか、さらには時代を経てそこにどのような変化が生じているか、といった問題に注目した研究は、日本でも十分に行われてきたとは言い難いのである。『学力と階層』苅谷剛彦より

さらに苅谷氏は踏み込み、父親の職業や両親の学歴などから「出身階層によって努力の量(学習時間)には差があるのか」ということを調査し、その結果を以下のようにまとめている。

いずれの年度においても、父親の職業、両親の学歴と学習時間との関連が見られる。職業については専門・管理職の父親、学歴で見れば、大卒の両親を持つ高校生ほど、学習時間が長くなる。出身階層によって、学習に向けての努力に差異があることが確認できたのである。『学力と階層』苅谷剛彦より

個人的には、アルバイトにも部活にも努力はあるよと反論したい気持もあるけど、「努力のしがい」を感じてる(感じることのできる)人が勉強を選択する感じに、なるほどなと唸るわけです。

最後に、少々長めだけど、一番考えさせられる苅谷氏の指摘に共感とリスペクトを込めて締めたいと思います。

努力の階層差とその拡大という本論文の知見は、メリトクラシーの議論が暗黙のうちに前提としてきた「努力の均等状態」ないし、「努力の平等」という糧に疑義を差し挟む。とりわけ、日本の教育を対象とした議論は、努力主義を強調し「誰もが同じように学校での成功に向けてがんばる(がんばらせる)仕組み」が作動してきたというイメージを作り出してきた。しかし、今や私たちは、そうした努力主義、より正確にいえば、努力=平等主義がイデオロギーにすぎないと指摘できる。 教育達成のにおける「結果の不平等」は、能力の差異のみによってもたらされるのではない。出身階層の影響を受けた努力の不平等もそこに介在したいと考えられる。にもかかわらず、「できなかったのはがんばらなかったからだ」というように、個人の失敗を努力の欠如に帰着するとすれば、日本型メリトクラシーのイデオロギー性は、能力の階層差や結果の不平等を隠蔽してきただけにとどまらない。 このイデオロギーの巧みさは、(略)教育達成における階層差を作り出してきたこと、さらにはそうした社会階層の影響を、努力が平等に存在する(「誰でもがんばれば…」)という幻想によって隠蔽してきたことにある。『学力と階層』苅谷剛彦より

改めて、「努力はするものではなく、与えられるものだった」わけですが、僕は努力を否定する気はありません。努力はするべきです。問題はその努力のアウトプットが見えない(見せてあげれてない)ことなわけですが、僕はアントレプレナーシップ教育のようなアウトプット設計ができる感覚を養うことが重要だと自分自身が起業を決意した瞬間から思うようになりました。このことについてもまたいずれ書きたいと思います。

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2012年9月27日 (木)

【Ustream】ソーシャルビジネス公開インタビュー第5回に出演しました!

いつもお世話になっているNPO法人横浜コミュニティデザイン・ラボの杉浦理事長からのインタビューと、会場に支援者仲間がいてテンション上がったせいで、いい感じでリラックスしつつ、最近考えてることをまとまってお話することができたと思います。長いので、お時間ある時にご視聴下さいませ。


Video streaming by Ustream

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2012年9月13日 (木)

学校図書館開放運動

読みやすくしたものをこちらに再アップしてありますので、こちらへどうぞ。

子どもたちの学力を支える学習資本における文化的資源を、学校がもっと子どもたちに提供するべきだと思う。特に生活困窮世帯の子どもたちが多く通う学校には、文化的シャワーを浴びせてあげれるくらいにコストを投下してほしい。例えば学校のネット環境は劣悪だが、すべての情報にアクセスさせるべき。

学校図書館法の第2条-2に、僕がイメージしてた、図書室に普通に町の人がいて生徒と交流して相談にのってる姿が実現可能だという根拠を見つけた。「学校図書館は、その目的を達成するのに支障のない限度において、一般公衆に利用させることができる」。もっと具体的に考えてみよう。

学校図書室こそが、生徒に文化的シャワーを浴びせる、もっとも適した場所であり、司書教諭のスキルや専門性の最大化を図りつつ、そこに町の面白おじさんや世話焼きおばさんが加わることで、図書室は最強のコミュニティサロンとなり、もはや総合的な学習の時間は不要になる、というのが僕の考え。

上記は9月11日に僕がツイートしたもの。こんなことを考える背景には、僕が県立高校の図書館を利用した「田奈Pass」という交流型の相談を実践していて、効果性の高さを実感できているということ。なんとか汎用モデルを作れないのかなと、考えている。

もうひとつは、最近遅ればせながら読んだ、苅谷剛彦さんの『学力と階層』から派生した周辺資料を読んでいて解明できた、学習資本には「経済的資源」と「文化的資源」が影響しているということ。

苅谷剛彦さんの『学力と階層』を読んで、学力資本には「経済的資源」と「文化的資源」があると知った。自分は後者に対する関心を近年ずっと持ってたんだけど、本田由紀さんの『学校の空気』でも「家庭の資源と学力スコア」で、文化的資源のある子たちが学力上位スコアであることがわかった。

続き。勿論文化的資源を支えるものは経済的資源なんだけど。ゼロ成長時代の限られた収入の中で、保護者たちが家庭内の何に(直接勉強につながらない文化的なものなどに)お金を使うかってことが、子どもたちの学力に大きな影響力を持っていることを、もっと自覚するべきだと思う。文化を育むって大事。

これらを総合していくと、最初にツイートしたアイデアに行き着く。大分前から考えてたんだけど、ちょっと突拍子もないし、実現可能性が低いだろうと思っていたので、傍において置いたアイデアなんですが、学校図書館法というのがあることを思い出し、ちゃんと読んでみようと思ったら、「学校図書館は、その目的を達成するのに支障のない限度において、一般公衆に利用させることができる」というのを見つけ、なんだできんじゃん!と思った次第です。

とはいえ、まだまだ突拍子もないアイデアに聞こえるでしょうし、色々なリスクを挙げて反対して来る人の言い分もだいたい想像がつきます。

そこで、今日はちゃんと整理して説明してみたいと思うのです。

まず、図書館は高校でも大学でも居場所化しています。その理由は、目的なく居てもおかしくない唯一の場所だから。自然、居場所のない、或いは居場所(かまってくれる人がいる場所)を探してる生徒が集まります。

図書館は話題の宝庫です。ネタに困らない!しかし、もっと重要なのは、ネタに困っても困らないのが図書館なのです。困ったら本に目を落とせば通常形態に戻れます。

図書館は、学校の中で唯一正解と不正解が混交している場所だし、そもそも答えなんて十人十色なんだぜって言い切れる場所です。

新しい本を一冊入荷する感じで、新しい世話焼きおじさんはいかがでしょうか?これが図書館開放運動のコンセプトです。

ただ、誰でもいいってわけではない。生徒とハレーションを起こす人物も多いでしょう。ここが難しい。なので、ここは面接があります。或いは、小学校なら図書ボランティアの方々にまず開放して、居てもらう。

あ、ここポイントです。居てくれてればいいんです。司書さんと主婦トークでもして、今晩のおかずについて話してみましょう。子どもたちは案外ダンボになって聞いてて、「私もそれ好き!」なんて言って会話に加わって来るでしょう。

そこからその子の食事の状態が見えて来るはずです。安心できる子と、心配になる子が出てくるでしょう。その心配を先生と共有するだけで、このプロジェクトは成功と言えるでしょう。

高校で考えた場合。図書館利用者ボランティアという名目で、学校に登録し、登録証を発行してもらい、それが入校のパスであり、図書館カードになればいいと思います。

また、事前に研修も受けてもらいましょう。ここは、是非僕を起用していただくことをオススメして起きますw。

学校内の通行可能なルートを予め決めたり、本を借りれる日を設定したり、細かなルールは例によって走りながら。ただ、しっかり決めておくことは、何を話しどんなアドバイスをしたのかのフィードバックをちゃんとすること。

どうでしょうか?あったらいいなな仕組みではないでしょうか?

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