リクルート・スーツを着た発達障害の人たち
発達障害の児童を支援しているNPO法人たすくさんと出会ったこともあり、前に同じタイトルで書きましたが、ちょっと自分の気持ちや経験を整理するために、もう一度ちゃんと書いてみたいと思います。
10年間、困難を抱えた若者の支援をしてきて、いろんな状況、タイプの若者と接して来たわけですが、まだまだNPO法人が行っている支援現場には現れることのないタイプの若者がいるんだってことを、ハローワークと同じフロアにある「あだち若者サポートステーション」というところで三年勤務して知りました。
ハローワークと同じフロアというシチュエーションに対して、リファーが楽だなぐらいにしか、はじめは何も考えていませんでしたが、実は足立のサポステだから起きてたことがあったということを、辞めてから、つくづく感じていたりしています。その最たるものが、リクルートスーツを着た発達障害の方たちなんです。
彼らは、縦割り行政の狭間や、障害者と健常者、或いは精神科と福祉作業所の狭間に落ち込んでしまっている若者なんです。
そういう若者がいるという事実を問題提議として発信していくことで、彼らが少しでも今よりハッピーになることを願い書きたいと思います。
僕の勤務していた「あだち若者サポートステーション」は、ハローワークが同じビル内、同じフロアにある立地ということと、予約なしで自由に来て、自由に帰れることが特徴の施設です(当たり前かと思ってたら予約制もあるみたい)。
僕はここで責任者として三年間勤務したのですが、ようやく体制が落ち着いて来た二年目ぐらいから、「そういえば、あの人随分前から来てるよね?」なんて利用者がちらほら見受けられるようになりました。
あだちサポステは、パソコンでエントリーシートの作成やプリントアウト、求人サイトのチェック等だけの利用で帰るような方も多く、リクルートスーツを着たしっかり者な方たちは、ハローワークの付属機関的な利用の仕方をして、言ってみれば非常に上手に利用して帰るわけです。
そういう方たちは、朝夕のミーティングにも名前が上がってきませんから、言わばノーマーク。もっと言えば「ほっといても何とかなるタイプ」だという認識がスタッフにはあるわけです。
それが、徐々にコミュニケーション進むにつれ、実はいろんなことが苦手な“要支援”な人だということに気付いていくんです。気づきのポイントとしては「また落ちた」よりも「またクビになった」なんですよ。ここは、ポイントです。
でもって、そういう視点に立ってフロアを見ていると、そういう一見しっかり者には見えるけど、どうやら困難を抱えていそうなタイプは、どうやら一定数いるようなのです。そういう方が2ヶ月に一回とかふらりと来ると、顔と名前が一致しないので、捕まえようがないというかスタッフの共通認識にすることも難しいのがリアリティってヤツです。
そんな彼らを「リクルートスーツを着た発達障害者」と、僕は名付けました。これは、カジュアルな服装の一般的な発達障害の方や知的障害の方との差別を図る、わかりやすい差があると思ったからです。
さて、“カジュアル”な服装の発達障害の傾向を感じさせるタイプの方々は、スタッフが一見して心配になることが多く、新人のスタッフ、言ってみればド素人からも「石井さん、ちょっとあの人と話してもらえませんか?」なんて初来所の時点、或いはセミナーに参加した時点で“要支援”となっていきます。
何が言いたいのかと言うと、リクルート・スーツを着た発達障害の方々の、この「気付かれなさ」で生まれるタイムラグ(気付かれなさ=心配されなさ)が、彼らの困難さを複合的なものにしている要因になっていると言いたいのです。
同時に彼ら自身が、自分の障害性に気付いておらず、社会や会社、或いは特定個人のせいだと思っていることが多いことが、“事”を複雑にしている原因だと思います。実際、明らかなパワハラに遭っていたり、心ない言葉を浴びせられているケースは圧倒的で、「あそこは人が悪かった」という感想になるのも頷けます。
また、比較的学歴の高い方、時にはビックリするような高学歴の方も多く、大学までは問題が顕在化しなかったこともこの傾向を助長させているように思います。
この、自己認識のなさが、深刻さを加速させてしまうわけです。しかし、この自己認識のなさはカジュアル組もある程度一緒なのですが、イジメを受けた経験などからか、自分は人と何かが違うという違和感程度のものを抱いているケースは、カジュアル組の方があるように思います。
(ちなみにカジュアルという言葉を使っていますが、お母さんが買ってきた服をそのまま着てるな、というのが正直な印象です)
この自己認識の「なさ」から起こる行動パターンには大きな違いがあります。カジュアル組は、自己認識がそれなりにあるため、セミナー等へ参加してきます。
一方、スーツ組は「自分はそんなものに参加する程、困ってはいない」或は「あんなものに参加するのは、ひきこもりやニートの連中で自分は関係ない」という物腰である場合が圧倒的に多いのです。
ある意味、セミナー参加中の言動が大きな見立てとなりますから、ここに参加してくれないのは、その人が抱えている困難を把握し切れないこととなるため、支援現場での長期滞留と直結する要因にもなっています。ここにも気づかれなさの落とし穴があります。
そのかわり、キャリア・カウンセリングは(時として必要以上に)受けます。しかし、キャリア・カウンセラーは話を聞き、ステップアップを促すのは上手ですが、指示的アプローチから、(しかるべき支援への)ステップダウンを促すことが苦手であり、見立てができる方がそう多くはいません。
こうして闇雲に時間が過ぎていくだけなら、カジュアル組と変わらないのですが…。
これは最大の特徴と言えると思いますが、スーツ組は一見普通なんです。逆に口達者である場合もあります。それを真に受けてカウンセラーが鼓舞する。そしてドンキホーテのように企業に突っ込み、撃沈する…。彼らがスーツを着てる所以でもある就活への積極性が、カジュアルな彼らとの大きな差異となっているんですね。
そして、これこそが彼らの問題を重篤にしている要因だと思われます。
この繰り返しから二次障害で鬱病や拒食症、統合失調症を発症してしまうケースが非常に多いのです。実際、僕が出会ってきた精神障害者の多くの方は、実はベースにあるのは発達障害が原因で、社会的なストレスを抱え込み発症というケースが圧倒的に多かったです。
就職やバイトの面接もそこそこ受かってしまう点も、彼らの気付かれなさではあります。しかし、ちょっと付き合うと対人面や作業面での違和感が浮き彫りになるため、職場での人間関係の構築ができません。
構築できないどころか、理解されないが故に、罵声を浴びせられる、時には暴力を振るわれるという、完全にパワハラにあっていたりするケースもしばし見受けられます。この人格否定は相当精神にダメージを与えていると思われます。実際、クライアントの女性が相談中に何度も涙を流したことを思い出します。
逆にカジュアル組は、この辺をうまく回避しているので、ストレスを一定程度近づけない術を持っていますし、同じような仲間を見つけてつるむということを上手にします。
こうして、難しい顔をしたスーツ組と、ほのぼのとしたカジュアル組の顔の険しさが変わっていくんだと思います。これが、後々致命的な差に変わっていくんです…。
高学歴で、大学を卒業するまで無難に日常生活を送れているタイプだと保護者の認識がほとんどないケースが圧倒的に多く、ニートやフリーターになると、自己責任論で本人を追い込んでいることがよくあります。こういう場合、よく聞く言葉が「大学まで出して」です。
このように、家庭でも職場でも強いストレスを受けつつも、毎日のようにハローワークに通う日々が続くわけです…。実はストイックというよりも、本人のこだわり的なパターンという場合の方が多いのも悲しいんですよね…。
このようなことから、スーツを着た発達障害の人たちは、精神疾患など二次障害に陥る確率がカジュアル組より高いのでははないかと推測されますし、私の実感値では、それは当たっているように思います。
そして、カジュアル組も含めてですが、私たち就労支援者が彼らに対して最終的に福祉的なサービスに乗せようと思った時、障害者としての認定を得ていない、所謂障害者手帳を持っていないとサービスが受けれないという現実が立ち塞がります。
ここには当然保護者の協力というか納得が必要になるので、ここに辿り着くだけでも相当の労力が使われるわけですが、本当に大変なのは、ここからだということです。
こういう場合、正直、名だたる発達障害者支援センターなんてものはあてになりません。あてにならないのに、彼らを経由しなければ認定検査に辿り着けないというこの現実!(二年かけて障害受容を果たした男性をリファーして、主体性が無いという理由で門前払い同然の扱いを受けています。主体的な態度に見えないのがその方の一番の生きにくさなのに!)
実際、ここをくぐり抜けても、障害者の認定が得られないケースも多くあります。これが境界例(グレーゾーン)という言葉の所以なのだと思います。
障害の有無を判定する検査で、「センター判定」と言われる健常者と障害者のちょうど間ぐらいという判定結果の場合、認定されない場合と、される場合があるようですが、ここに天国と地獄の様な差が生まれます(判定する側がどの程度この事実に認識があるのか?)。
また、これのどっちが天国でどっちが地獄なのかも正直わからないぐらい複雑な感情が渦巻くので、どっちに転ぶにしても、相当高度な支援スキルと、他団体や保護者等との調停スキル(と呼べばいいのか?)が求められます。
こういったものに対応しうるスキルをどの程度保有しているかがNPO法人の力量なんだと僕は思いますが、まだまだどこの団体にしても未知のスキルなんじゃないでしょうか?僕も自信はありません。
発達障害という特性を持つ彼らは、立派に企業で活躍されていらっしゃる方もいいますが、一般的に健常者の中ではどうしても仕事についていけない、ミスを連発してしまうなど、企業に取ってお荷物的な存在になりがちです。しかし、ジョブコーチ等の利用により障害者の中のみならず、健常者の中でもトップクラスの働きをする方がいらっしゃいます。
先日お会いした、NPO法人たすくの代表である斎藤さんが、フィンランドに見学に行った際、ノキアが一流の電気通信機器メーカーになったのは発達障害者のお陰だと言ってましたが、そういうことがノーマライゼーションのもとに行われるマッチングにより、いくらでも可能になると思います。
しかし、そもそも手帳を取得しないと障害雇用の法定雇用率の対象外ですので、がさつな言い方をしますが、今の日本には企業に取ってのメリットがないのです。
また、縦割りの弊害で言えば、サポステ等が労働政策として産業経済部の管轄で行われていることが多いために、一番問題になっている発達障害者の問題を取り上げること自体が御法度的なムードがあります。長期滞留者という言葉で語って欲しいとか…。
カジュアルな彼らもスーツを着た彼らも、支援が同じように困難であることを押さえつつ、最後に決定的な違いを述べておくと、
カジュアルな彼らは虐め体験等で、他者と自分の違いについて敏感であり、また、保護者も学生時代にLD等の指摘を受けていることがあることもあり、うっすらとした受容があるため、福祉施策へのリファーの可能性が一定程度あり得る。
一方、スーツを着た彼らは、自身及び保護者が無自覚なため、自立塾のような支援の現場に現れることがない。
「あだち若者サポートステーション」という特異な立地と自由利用という環境設定があってはじめて出会うタイプだと言えます。こういう方たちを早期に発見し、しかるべき支援に乗せる流れを確立しなければ鳴らないと思います。
最後に、これは非常に過酷な憶測となりますが、発達障害者が何らかの支援に乗り、社会復帰を果たす瞬間に、スーツ組とカジュアル組に決定的な、或いは致命的な課題が浮き彫りになると僕は想像してます。
それは、カジュアルの彼らはある種の朗らかなかわいらしさを持ち、スーツを着た彼らにそれがない人が多い。最初的にはここが社会参加の決定打となると僕は思うのです。これがスーツを着た発達障害の人たちの困難さなのであり、世の中というのは、実はとても単純な尺度で動いている事実だと思うのです。
だから、彼らの顔が、性格が険しくなる前、それは恐らく思春期前に彼らを発見し、しかるべき受容と自己肯定感を持ってもらえる支援を確立することが重要なことだと思います。
後記。
実はスーツを着た発達障害の人たちは企業の中にちょっと変わった人としているんです。20年前までのおおらかな社会には、それなりの順応を果たしていたんです。
彼らが今の時代に生まれたから、苦労を強いられている。逆に今の若者が20年前に生まれてたら…。そう考えることで自己責任論の乱暴さが理解できるかもしれませんね。
Ronnie Wood Anthology: The Essential Crossexion
ロニー兄貴です。元気なんでしょうか?長いキャリアでいくつものバンドを渡り歩き、ストーンズに落ち着いたわけですが、どのバンドに居たときもこのソロの一群を聴くと一線を感じるわけです。思った以上にメジャーセブンスな憂いというかロマンチックというか。どのバンドも黒人音楽を下敷きにしたバンドだったと思うのですが、ロニー自身の下敷きはそのど真ん中から少しズレていた。だから、例えばキースと比べソロ作品が多い。そんなこたあねえか。